昭和50年01月12日 特別奉修委員
昨日、熊谷さん二度目のお参りの時に、色紙を三枚持って見えて最近の、ま一番大事な所を抜き出して、書いて頂きたいと言う事でしたから、あの書かせて頂いたんですけれども、一昨日の御理解と、昨日末永先生が頂いた、頂いたばっかりにとったのとを書かせて頂いた。一昨日の真理は我々の幸福の全てを支配する無限の力であると。昨日の末長先生の、今日の御理解にも申しております。人力を持って善に導く事は出来るが善種、善の種、善種の人を作る事は出来ない。
そすと信心は家に不和のなきが元という。その事を書かせて頂いたんです。どこが一番それであのまぁあの大事な事かというと、今熊谷さんが取り組んでおられる、家庭に不和のなきということは、あのもう言うなら、見事に頂いておられる訳ですけれども、もう一つその深いところ。言うなら家の、家に不和の無いということ。例えて言うならば何人ですか、五人か六人かお子さん達がおられますでしょうか。
そのそれこそお母さんを中心にして、普通で言う円満という意味でならば、もう誰一人反対される方もなからなければ、もうお母さん孝行な方ばっかりなんです。所が信心には着いて来られてない。信心に付いて来ない所ではない。もう本当にお母さんが金光様にもう、ぼうけちしもうちからち言うごたるふうな雰囲気が、あの子供さん達の中にあるということです。それがまぁ今後の、熊谷さんに掛けられる信心だと。
いわゆる本当にもう、ここん所を子供たちに頂いて貰わなければ、自分だけは金光様で有難い。さぁ亡くなったらお母さんがあげん一生懸命じゃったけんで。まぁ金光様でしてくれるだろうけれども、それはお母さん一代の者であって、なら子供達までがそれを、なら信心を受け継いで行こうと、それはまだ分からない。という様にまぁだ不安定な物だということ。そこでね。
ほんならそう言うおかげが頂かれる為には、もうあの熊谷さんの場合は、人力を持って善導するてんなんてんという様な、生易しい物ではいけない。いわゆる無限の神力に縋らなければ出来ない。そしてそれこそ言うならば、種を変えて頂く様なおかげを頂かなければ、今後の熊谷さんのところの、本当のおかげには繋がらない。それこそ此の方は一代仏を嫌うと言う事を仰るが、一代仏に終わってしまうかも知れない。ね。
それでは折角此れ程しの信心がと言うので、もう言うとか教えるとか、言うて聞かせると言った様な事ではなくて、いよいよ無限の神徳。そこに今日頂きます、愈々限りない神様のお働きに触れて行く信心と言うならば、言わば自力を捨てて他力にすがる。表行を捨てて心行に生き抜くという、その心行又は他力の信心の内容の深さという様な物に、触れて行かなければならぬ。そらもう大変な難しい事であると言う事です。
けれどもそれをです。そんならばあの容易にするというか。おかげの頂けれる道は、愈々真理は、我々の幸福の全てを支配する無限の力というところにならなければならないということなんです。だからその色紙三枚が、こらもう三服着いて一緒にこうやって、あの見せて頂かにゃいけんですねというた事でしたけど。そんならあれを額に、今日上げてあの額を買ってしようかと、今お届けがあったんですがまぁそれこそあの、籃胎漆器の色紙掛けが頂いておるからと。そらそれで良いじゃないですかと。
そしてそれをこう取替え取替えして行かれたらどうでしょうかと言った訳ですけれども。それを取替え取替えして行くということで、おかげ頂よると言うのじゃなくて、もうどこまでも真理。愈々本当な事を分かると言う事なんです。真理。本当な事が解ると言う事は、我々の幸福の全てをそれが支配する。ね。それはしかも無限の力になるのであり、無限の力に入って行く事の出来れる生き方だと言う事。だからもう結局此処を頂かなければ出来ない事に成って来るのです。
そこでです、なら真理は我々の幸福の全てを支配するのですから、愈々本当な事が解らせて頂かなきゃならん。それを又今日の御理解から頂きますと、ほんならいよいよ本当の心行に入らなければならないと言う事。私はまぁだ、あの善導寺教会に朝参りを差して頂いておる、所謂信者時代。自転車でお参りをしておりました。もう最後にはもう自転車もあの無くなりましたから、歩いて参った訳ですけれども、前の晩に必ず一遍通り、あの自転車の点検を致しました。
もう五時の御祈念なら五時の御祈念にお参りをする前に、お掃除をどんなにしても、三十分は掛かります。ですから少なくとも四時半には、善導寺に行かなきゃなりません。それがちょっとぐずぐずしてパンクしておった、空気入れておったと言いよると、もうそれで遅くなるのです。だからもう前の朝に必ずあの自転車の点検をして、ぱっと乗って行けれる様に、あのしておりました。そう言う事がね心行に繋がると言う事を、今日は私思います。正教さんが四時の御祈念に、例えばたった一分か二分間でも切れた。
今の合楽では表行と言う事がない。だからせめてその表行には出来ないから。所謂ここで行われておる御祈念、御祈念に位はきちっとした時間に、きちっとした御祈念をさせて頂きたいという念願を立てた所が、前の晩寝らなかったりお酒を飲んだりした為に、ちょと遅れた。だからここにそのお詫びのお届けに来ました。だから私がその正教さんに申します様に、昔はねその位な失敗はもう、すぐ取り返す事が出来た。例えばそう神様にお誓いをさせて頂いておるのが、例えば欠けた。
例えば四時の御祈念に一分間遅れた。二分間遅れたと。そういう時には直ぐ一週間の、お詫びの印に断食をする、と言った様な事をやっておった。お詫びの印にこうこうさせて貰いますと言った様な表行に取り組んだ。確かにそれに取り組んだら、自分の心も楽になるし、また神様も許された。所が今の合楽には、それが出来んのだから。だからそう言う失敗の無い様な生き方をする事が心行だと言う事なんです。そう言う失敗の無いおかげを頂く事が心行だと。
だから心行になってみやすうなったごとあるけれども、実をいうたらもうそれこそ水も漏らさん様な心掛けを持っとかんと、心行は中々出来んけれども心行はです。いわゆる無尽蔵というか、無限というかそういう神様の働きに。合流する事の為が心行なのですから。同時に私共がです。愈々本当の事を解らせて頂くと言う事は、どう言う事かというと。本当な事が解らせて頂いたら、私どもの上に起きて来る、一切の全ての事が皆んな、真意だ神愛だ、御深慮だということと。
此れが本当の事なんだ。信心しよって、どうしてこんな事が起こったてんなんてんちいうことは無い。一切がおかげであるね。だから一切の事を有難いと受けて行くと言う事なんだ。心行とは一切を合掌して受けて行くと言う稽古が、心行の稽古なんです。解らない。私共は本当に、それがどうしてこう言う事が。と言う様な事が何故かと言う事が解らない。けれどもそれは神愛であると言う事だけは解らなきゃいけない。どういうわけは分からなくてもそれは神愛だ。だからその事を合掌して受けて行くという。
真理は我々の幸福の全てを支配するまでの、又無限の力に入っていけるまでの物なのだから。その真理を体得させて貰うて、日々有難い勿体ない。初めてこのかたの道は喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせんと、平易にいうておられる事と同じ事になって参ります。だからもう一番そもそも、一番初めに頂いた御教えに帰る訳です。御道の信心は。このかたの道は喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせんと言う事がです。例えば真理とか、本当な事かと言う事を、難しい事を言わんでも。
それがもし出来るとするならば。そこから一切のおかげが成就して句るのであり、それこそね。人力ではどうにも出来ないね。ただ御道引きする事は出来る。善導する事は出来るけれども、その人の魂までも、言うならば赤を白にする事は出来ない。けども神力の信心に繋がる時にです。言うならば、善種良い種、ね言うならば家の例えば、熊谷さんの所の例を取るならば。私は、昨日申しました。お宅にはあなた自身も信心が無い時は、そうだったかも知れない。どうも貴方の所の、例えばその、
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